昭和40年06月10日 月次祭



 御造営開始(井上組との正式契約の成立)月例祭に併せて御礼報告祭 時間を遅くしました。

 時間がございませんので、一言神様に頂いたことだけ、御挨拶代わりに聞いて頂きます。後委員長がまた一口、御挨拶をするそうでございますから。今日は皆さんお祈り添えの中に、御造営のことについての、お祈り添えを頂いておりましたが、今日目出度く熊本、井上組との、正式契約が成立しまして、今日有り難い調印の報告をする事が出来ましたことを、に篤く神様にお礼を申し上げさせて頂いた事でございます。
 期せずして今日の、十日という日柄に、まあいうならば、もめにもめた、事でございましたけれども、結局は、井上さんの熱意に、神様が動きなさったというような感じで、今日おかげを頂きました。つきましてそのことを神様へ今日は、報告のお祭りを月次祭に併せて、期せずして出来たとゆう事です、ね。「七日の菖蒲に十日の菊」とおっしゃるが、本当に十日の菊におかげを受けたということが。
 あたくしは大変有り難いと思いまして、そのことを神様にお礼を申さして頂きましたらね、神様が、知らん顔しておられたんですね、私もがっかりしましてからね、私共そのこのように感激いっぱいで、お礼を申し上げたのに、まあこれは私の感じそのまあ、皆様に分かるように話しているのですよ。あたくしと神様との間に、何の交流も無いのです。云うなら知らん顔してござるわけです。
 それから改めて御祈念をして、ご無礼があったやら分からんから、御祈念さして頂きよりましたら、今日は珍しいお神酒がお供えになっているでしょう。あちらに『瑞王』という、あの松の木に鷹が鷹が止まっておる、お酒がございますね。あれとこの『菊正宗』の横にある、『菊美人』というお供えが、二本お供えがあっとります。あの二つを並べて頂くんです。私はもうほんとに感激いたしました。ね。
 今度は今度の御造営のことはですね、今日目出度くなる程調印のおかげを頂いたという事は、もうこれは神様のね、あの神ながらな神様の、神定めのままにあっただけの事、その印が今日の十日の菊の日に、おかげを頂いた事だけでもう、分かろうがという事、ね、それよりもです。ね。椛目の神愛会お広前で信心の稽古をしておる沢山の人達が、打って一丸になってですね、こういう大事業に取り組ませて頂いた。
 しかも、止むに止まれん思いで、取り組ませて頂いた、その元気な心に対して、お礼を申し上げるということであった。ほんとにあたくしは、そうだなと思たんです。菊美人というのは、私がいつも申しますように、ね、改まらせて頂かな、磨かせて頂かな、ね、その二つの、中に含めたところの、椛目の合言葉が、本気で限りなく美しゅうならして頂こうや。ということである。心の美人である。一切の問題は心の汚いところから、問題が生じてくるのである。
 限りなく美しゅうならせて頂く、問題は限りなくあるけれども自分自身の、汚い心がその問題を生んでおると云うことを分からせて頂く時にです。改まなければならんのであり、いよいよ、磨かして頂くことに精進さして頂かなければ、おられんのでございます。ね。皆さんの「限りなくこれからの美しゅうならして頂こう」というその心で、しかも、この大事業に取り組ませて頂かれん、皆さんの心意気というのがです。ね。
 松に鷹がとまっておる、鷹というのは、大変目出度い、と云う事にされております。いわゆる瑞王、その言葉の通りでございます。ね。そういう御働きがここに、神様の、そう、そう言った神様、さらに、いかに、神定めの御働きがあっておりましてもです。あたくしどもの心の中に、その受けて立つ、元気な「おう」と言う心がです。なからなければ、おかげにはなりません。ね。
 いえそういう元気な心がです。あたくしどもはやはり「限りなく美しゅうならして頂こう」というところに、焦点を置かせて頂かなければ、その元気な心は生まれてまいりません。更の心は生まれて参りません。新鮮なものの値打ちとするところの、鮮魚魚でも果物でも野菜でも、それがしおれたら値打ちが無い。ね。いわば百円のものならばもう八十円、八十円のものなら五十円というように、値打ちが無くなるのである。
 ところがです。そういう生き生きした瑞々しさ、そのフレッシュなそう言うものを値打ちとする所のものは、得てして必ずしおれるものであると云う事である。ね。朝露を含んだ朝顔がそれこそ目の覚めるように、生き生きとしてすがすがしゅう咲いておっても、昼頃にはそれは固く萎んでしまうようなものである。そこで私共の心の中に日に日に、生き生きと更々、更に更な信心の喜びというものが、必要であるという事。
 その信心の喜びをです。あたくし共の心の中に頂く時に、元気な心がもりもりと、湧いてくる。そこには暑さも無かなければ、寒さも無いおかげが頂かれる。本気であたくし共が美しゅうならして頂こう。ね。確かに米屋から、一斗の米を買うて来たんだけれど、帰って量ってみたところが八升しかなかった。おかしいな米屋が量り間違えたのかな、こうゆう風に皆さん思うんです。それは間違いなんだ。ね。
 それより自分の持っていった袋そのものに、破れがありはしないかと、分からしてもらうことなんだ。なるほどここにこういう大きなほこれがあった、破れがあったんだもの、こっから漏ったんだなあ、ということが分かる時に、そこにふせが当てられてる。ね。そのふせが当てられていく時です。あたしの心の中に、生き生きとした喜びが、それに応えるように神様は、おかげを下さるわけなのです。ね。
 事柄の一切がです、ね、どうして、あれがあんなこと言うであろうか、と言う前にです。自分の心の破れをまず、気付かせて頂いて、そこに、ふせを当てて行く、ね、そこの破れを、修理重ねていくという事に、焦点を置くならば、そこから生き生きとした更の心が、生まれて参りましょう。日々の中にでも、ね、おい、ちょっと、と子供に呼びかけたところが、知らん顔してる。あれをしてくれ、と言うても、尚、知らん顔しておる。
 どうして大人の言うこと聞けんか、と言うのではなくてです。そん時に、待て待て、自分の心の中に、言うこと聞かせられないものがあることを分からしてもらって、自分を本気で見極めていくところの信心にならして頂く時に、そこに生き生きとした、心が生まれてくる。信心が日に日にさら、野菜鮮魚果物など。ね。その新鮮さを値打ちとして、するものが、でありますように信心はそれより以上にです。
 新鮮さを必要とするのであります。ね。その新鮮な心であたくし共の心の中に、燃えておるところの、その信心の勢いというか、熱情というものをです。愈々かき立て、かき立て御造営成就の暁まで。おかげを蒙って行かねばならんと、思うのでございます。お祭り、いわゆる、今日の調印の事についてのお礼を申し上げさして頂こうと、思うたら。ね。そんなことなんか神様問題にしておられなかったと、あんまりそれよりもねそいうことになってくるところの皆の勢いこそ、本気で限りなく美しゅうならして頂こう。
 という祈りそのものを、いうならをお礼申し上げよと仰るのでございますから、いよいよ、あたくし共がそこに本気で取り組ませてもらう時に、神様の御ヒレイも喜びも、あたくし共の上に感応ましますことを、あたくしは疑いません。どうぞそのような訳でございましたから、皆さんもこの十日の有り難い月次祭を境に、もう一段と、生き生きとした信心をなさることを、要望いたします。
   おかげを頂きましてありがとうございました。委員長の御挨拶がございます。